旧軽井沢歴史散策 |
碓氷峠のてっぺんです。大和武尊は、ここを通ったと言われていますが、実はそれにまつわる伝説はあまりありません。逆に嬬恋村の鳥居峠には、たくさん逸話があります。で、調べてみたら『碓井の坂』は、ここをさすわけではなく、倉渕村と嬬恋村を含む広範囲の地域をさしていたようです。
珍しい狛犬
しなのきの巨木 佐久あたりのお墓や神社に多く見られます。
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信濃追分歴史散策 |
わかされの碑
京都へ向かう中山道と、越後へ通じる北国街道の分岐点。旅人同士が、ここで別れを惜しみ、涙とともに袂を分けて旅を続けたといわれるのが、名の由来です。道標のそばには、石の常夜燈などが、当時のままに立っており、「さらしなは右
みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」の歌が刻まれています。これは、江戸から来た場合、右へ行けば月の名所更科から善光寺を越えて越後路へ。左に進めば、木曽路から東海道を通り、桜の名所吉野へと道が続いていることを示しています。
追分宿。
江戸時代、浅間根腰の三宿とよばれた軽井沢、沓掛、追分の3つの宿場町のなかでも中山道と北国街道の分岐点であった追分宿は、旅籠71軒・茶屋18軒・商店28件があり、三宿の中でもっとも賑わったと言います。
泉洞寺 追分宿の西側にあり、約400年の歴史をもつ曹洞宗の古寺。堀辰雄が毎日のように散策に訪れたことでも知られています。山門の手前より左の小道を浅間山に向かって歩くと、木々に覆われた墓地に出ます。この小道は堀辰雄や立原道造が散策路としていた道で、右側には堀が愛した石仏の如意輪観音像があります。首をかしげ、左手を頬にあてていることから歯痛地蔵ともよばれています。
浅間神社境内に残る松尾芭蕉の句碑 「ふきとばす石も浅間の野分かな」
浅間神社。 室町時代初期に建立された神社で、追分最古の木造建築です。明治2年(1869)5月には、浅間山の火山活動が激しくなり、その鎮静を祈願して同年9月に明治天皇の勅祭が行われたと伝わっている。
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海野宿歴史散策 |
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北軽井沢歴史散策 |
ルオムの森には浅間高原最古の洋館が佇んでいます。アメリカヤ様式と呼ばれる和洋折 衷の建築様式の極めて貴重な文化遺産であり、暖炉の大ホールでは、かつてダンスが行わ れていたと言います。
また、この洋館は田中銀行をはじめ、数十の企業群を興した大正・昭和の実業家、田中 銀之助により大正9年に建てられた由緒ある別荘です。銀之助は、E・Bクラークと共にイギ リスから慶応大学にラグビーを伝えたことでも知られます。「日本ラグビーの父」と呼ば れ、初代日本ラグビー協会名誉会長でもあります。また、父である田中平八は「天下の糸 平」と称され、希代の相場師として財を成した明治の英傑です。
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嬬恋村歴史散策 |
嬬恋村は、非常に特殊な歴史をもっています。修験者たちが開拓した歴史です。平安時代末期、一人の修験者が、嬬恋村に流れてきました。信州に大帝国を拡げていた、海野一族の跡取りの一人でした。名は、海野幸房と言います。兄は、海野幸家。真田一族の家祖にあたります。彼は、戦争に嫌気がさし、修験者となって、人も住んでない嬬恋村にやってきました。
当時の嬬恋村は、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない頃でしたから、ほとんど人は住んでなかったようです。そこに、修験者となって、流れてきた海野一族の一人は、粗末な庵をつくり、『捨城庵』と名付けました。城を捨てて、造った粗末な小屋という意味です。刀を捨てて、修験者となって、修行を行いつつ、嬬恋村の開拓をはじめました。場所は、嬬恋村の万座鹿沢口駅のあたりです。
海野幸房は、名前を、下屋将監幸房と改名します。そして、子孫たちに嬬恋村を開拓させていき、広大な領地をもつにいたりますが、下屋氏は、勢力が大きくなると、次々と分村していき、譲り状を渡し、小国に分割していきます。わざと巨大な帝国を造らずに、逆に小さくしていったのです。今風にいえば、地方分権に徹したわけですね。そのために、下屋本家は、戦国時代の下克上からも逃れることができました。そして、今なお嬬恋村に存在しています。嬬恋村には、千年の歴史をもつ名家が、いまでもいるのです。
下屋本家を造った下屋将監は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。そして、神社は大いに栄えるのですが、山津波で壊滅します。壊滅した後に「阿弥陀堂」が建ちます。まあ、それはいいとして、そのあたりに住む人たちは、宮崎の姓を名乗るひとが多いのですが、ご先祖様が、神社に使えていたためです。
嬬恋村史と、真田一族2
平安時代末期、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない嬬恋村に修験者となって、流れてきた海野一族がいました。下屋将監です。彼は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。城を捨てて粗末な家を建てたという意味です。
下屋氏一族は、さかんに嬬恋村を開拓します。そして、真田から嫁をもらって人口を増やします。この風習は、現在でも残っていて、嬬恋村と旧真田町は、親戚どうしみたいになっています。そのために、嬬恋村は真田と隣接している西部の政治力が強く、東部の北軽井沢側は、風に飛ばされてしまいそうに弱体です。村長も、議員も、真田側からワンサカでてきますが、北軽井沢側は政治的に沈黙したままです。
(そのへんの事情は、詳しくは、以下のページを御覧ください) http://kaze3.seesaa.net/article/123305890.html
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